玄界島は、福岡市西区にある島です。「ベイサイドプレイス博多ふ頭」より定期船が出ており約35分の船旅で到着します。最高海抜約218メートルのお椀をふせたような形の島で周囲約4キロ、徒歩で約1時間で1周できる大きさで観光地としても親しまれています。主に漁業を生業としており、約350人の島民が暮らしています。自然が豊富で水産物が大変美味しく、福岡市内からのアクセスが良いのも特徴です。
玄界島からの眺望は、玄界灘から博多湾へ位置するため、両方の眺めを楽しむことができます。北側に 小呂島や柱島、南側はPayPayドーム・福岡タワー・能古島、西側には糸島半島・机島、東側は志賀島・立花山まで望むことができます。澄んだ海の色も美しいです。
2005年の福岡県西方沖地震により家屋の約7割が全半壊するなど多大な被害を受けましたが、2008年に復興事業が完了し、今まで課題であった斜面を解決するためエレベータ設置などの様々な計画が行われ、約3年で新しい玄界島へと生まれ変わりました。
玄界島は漁業が盛ん
漁業が盛んな玄界島は、一年間を通してアジやイカ、マダイなど、多くの魚介類を収穫しています。福岡市内でも有数の釣りスポットの一つで、釣り目的で来島される方も多いです。当サイトでは釣りスポットをはじめに、収穫している魚介類から活躍している漁船をご紹介しております。
歴史について
百合若伝説玄界島にまつわる伝説です。時代は平安時代、百合若という武将が部下(別府兄弟)に企てられ、玄界島に置き去りにされます。 百合若は、愛鷹「緑丸」により故郷の妻(春日姫)と連絡をとりながら一人玄界島で生き延びます。事を知った百合若は壱岐の船を掴まえ帰還し、最後は別府兄弟に復讐を果たし、妻と幸せに暮らしたそうです。
これまでの歴史1274年 - 文永の役(元寇)において、元軍が島の西(音無瀬戸)を通過
1281年 - 弘安の役(元寇)において、元軍が島の東を通過
1645年 - 外国船の動静を監視するための遠見番所を江戸幕府が設置
1866年 - 福岡藩の斉田要七と堀六郎の斬首刑が執行される
1882年 - 玄界小学校開校
1889年 - 志摩郡小田村の一部となる
1896年 - 糸島郡に編入される
1896年 - 小田村が北崎村に改称される
1934年 - 島の北西部に玄界島灯台が建設される
1947年 - 玄界中学校が開校
1961年 - 北崎村が福岡市に編入される
1996年 - 漁港から集落への荷物運搬用のモノレールが完成
2005年 - 福岡県西方沖地震により家屋の7割が全半壊するなど多大な被害を受ける
2008年 - 玄界島が復興を遂げる 復興についてはコチラへ
※古くは「久島」、次に「月海島」と呼ばれ、最後に現在の玄界島という呼び名に変わりました。